大河ドラマ 鎌倉殿の13人

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にどっぷりとハマってしまったマキアエディター伊藤です。日本史の授業ではもっとも興味がなく退屈だった鎌倉時代がこんなにおもしろく、ドラマチックな時代だったとは。当時、このドラマを観ていたら少しは成績も上がっただろうと思うほど、鎌倉時代の史実を自分なりに紐解いたり、伊豆への歴史散歩を敢行したり、ドラマ出演者のトークショーに遠征したり、と知りたい欲は加速の一途。

鎌倉殿の13人

(左上)頼家の最期や、畠山の乱…ドラマの先が知りたすぎてまとめ買いした、中公文庫のマンガ「吾妻鏡」。竹宮惠子先生作画(贅沢!)でわかりやすいです。(右上)伊豆の大河ドラマ館にも詣でましたよ。パネルでも北条家の皆さんに会えて嬉しかったです。(下段)ドラマ出演者のトークショー観覧は常に激戦。奇跡的に当たった八田知家を演じた市原隼人さんのトークショーを観につくばへ。2階の最後列という席運の悪さも吹き飛ぶ、セクシー八田さまを堪能♡

毎週、日曜20時を心待ちにしていたのに、最終回まで残るところあとわずか。いてもたってもいられず(?)マキア独自視点として、鎌倉殿の時代の美容・化粧文化について、ドラマの風俗考証を担当されている立正大学教授・佐多芳彦先生に話を伺いに行ってきました!

お話を伺ったのは…
佐多芳彦さん

立正大学文学部教授

佐多芳彦さん

歴史学博士。専攻は有職故実・日本古代・中世史。「鎌倉殿の13人」(大河ドラマ)、「平家物語」(テレビアニメーション)などの風俗考証・歴史監修を担当。著書に『服制と儀式の有職故実』(2008)、「NHK8K 国宝へようこそ」(共著 2022)など。

政子の化粧変遷で知る、当時のトレンド伝播法

ドラマを観ていても気になったのが、登場する女性たちのいでたちや化粧。政子も、ドラマ序盤と尼御台となった現在ではまったく違いますね。



「当時、化粧は京の朝廷など特権階級のものだったので、政子も頼朝と結婚した当時、まだ東国の一豪族に過ぎなかったときは、すっぴんだったと思います。白粉を塗る習慣くらいは多少はあったと思いますが、化粧をする道具は超高級品でまだまだ流通していません。化粧するのは婚礼とか一世一代の儀礼に限られており、普段はやすやすとできなかったはず。京の閉ざされた空間の中だけであった化粧文化が庶民まで伝わるのは、室町時代の末期くらいだと思います。当時描かれた有名な洛中洛外図屏風などを見ると、貴族や武家の女性、遊女たちは化粧をしています。鎌倉武士たちも北条時政とりくのように京の貴族を娶る人も出てきたり、京都大番役として六波羅に駐屯したりもしますので、そこで目にした公家たちの着物の形や着方を東国に持ち帰ることも徐々に増えていったと思います」(佐多先生)



確かに、宮沢りえさん演じるりくが北条家に嫁いだときは、京の雅な女性として、政子や実衣とは対照的でした。



「朝廷から位をもらった武士の妻は都の貴族がしているような格好ができるんです。しきたりに近いルールですが。頼朝が右近衛大将、征夷大将軍と位を授かるごとに政子も小袖姿から女房装束(いわゆる十二単)に変わっていったのもそうです。そうして鎌倉武士の中にも位を持つものが出てくると、被服文化もまるごと入ってきて、それが広がるきっかけにつながったのだと思います」(佐多先生)



鎌倉殿の13人

「当時、化粧は権威を持っている側の象徴であり、道具。鎌倉が都会と認められてからは京から鎌倉に化粧品を売りつけに行商人もやってきたでしょう。庶民が着ていた着物は筒袖という袖が細いものが一般的でしたが、貴族や遊女が公家風の大きな袖を着ているのを見て、上着だったらあれだよね!と流行り出したと思われます。当時は布の着物でしたが(貴族は絹)、布で見よう見まねで作っていった。上着のデザインに凝りだすのは鎌倉時代です」(佐多先生)

政子たちも、既に毛穴ケア&蒸しタオル美容をしていた?

当時のスキンケア事情は、どうだったんでしょうか?


「平安時代の記録を見ると「藻豆」(そうず)といって乾いた小豆を粉にして水に溶いたものが朝廷の備品リストのなかに「洗具」「洗料」として出てきています。いわゆる石鹸のような役割をして皮脂を落とすものだったんでしょう。小豆であれば庶民でも使った可能性はあります。また、お湯をわかして布を絞った蒸しタオルのようなもので顔を拭く、とかはあったでしょうね。これは貴族に限られたと思いますが、面脂(めんし)とか顔脂(がんし)といって牛の脂を顔に塗って保湿するものが中国から入ってきていました。この面脂は白粉の定着剤の役割も果たしたというので、今でいう下地ですね。


入浴習慣は、貴族は陰陽五行で入浴できる日も決められていましたが、武士たちは水浴びという行為はあったので、普通に毎日入っていたと思います。貴族よりよほど武士の方が衛生状態は良かったかもしれません」(佐多先生)

尼御台の頭巾の下の髪型はどうなっているの?

鎌倉殿の13人

妹の実衣が政子に、「その下どうなってるの?」と尋ねるシーンもありました。


尼削ぎといって、遠くから見ると肩にちょっとかかるくらいのおかっぱです。鬢ががあると既婚者ですが、政子がどうしていたかはわかりません。仏門に本格的に入るとなると剃髪しますので、承久の乱で大演説をするときは、旦那も亡くなり、子供も次々に亡くなってしまっていて孤立無援、俗世間とのしがらみもないと考えると、おそらく髪はないはずです。当時は、成人する=親の土地を譲り受け、婚姻できること。出家=それらすべてを捨てることですから再婚もしませんし、化粧もしません。何も欲しませんということ。そういう意味で政子にとって化粧が意味をもつという見方もできます」(佐多先生)

メンズメイクを流行らせたインフルエンサーがいた!?

当時、男性にも化粧する風習はあったのでしょうか?



「一部の記録によると、鎌倉時代より2〜30年前の院政期に源有仁という人がいて、教養に優れ、ものすごくオシャレな人だった。以降の貴族文化を作るようなインフルエンサーどころかディベロッパーと言えるくらいの影響力があった彼が、女性しかしなかった化粧文化を男性に持ち込んだと言われています。諸説ありますが、当時は顔立ちが美しかったり、元服したての少年が化粧をしても自然だと思われていた。それが鎌倉・室町と徐々に広がって、武士でも白粉を塗り、眉をおき(自眉を剃って額の上に描くこと)、場合によっては紅もさす。平家物語などを見ると戦の死化粧として化粧をしています」(佐多先生)

鎌倉殿の13人

光源氏に例えられ、眉目秀麗だったという源有仁。当時の方が自由で、ボーダレスな文化が根付いていたのかも。

佐多先生によると、スタッフ・俳優陣も、このドラマに賭ける情熱はひとしおで、セットや衣装、かつらに至るまで徹底的にこだわったそう。だからこそ、ここまで活き活きと、当時を生き抜いた人たちの息遣いまで感じられる作品に仕上がったのかも。もちろんその根底に、現代にも通じる、800年前の人間ドラマを描ききった三谷幸喜さんの脚本のすばらしさがあることは言うまでもなく。既に「鎌倉殿ロス」確定ですが、最終回までしっかり楽しみたいと思います!

イラスト/白ふくろう舎

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